未練


…おまえの居ないチームは火が消えたようだ。


レース後、喧噪から離れたところでゲルトはそっと溜息をついた。
ガラスを一枚隔てた向こうでは幹線道路沿いの灯りが次々と流れて行く。

ゲルトが無理にもと勧めて、否、強引に辞めさせてヘルマンをサーキットから離したにも関わらず、覚悟していた以上の喪失感に苦しめられていた。
レースウィーク中は追い立てられるような忙しさに紛れて彼を思い出すことは、まずない。
たまにチームのミーティングでヘルマンの姿を探す自分に気付きあきれる程度だ。
いけないのは祭りの後、歓声に送られチームでささやかな祝杯をあげ、次の戦の準備を始めるまでの短く穏やかな時間。
ヘルマンがチームに居た頃は、たとえ車中で彼が静かに眠っていても、今のような殺伐とした静寂に包まれることなどなかった。スタッフの運転するワゴン車のタイヤがアスファルトを蹴る音ばかりがやけに耳につく。
今頃ヘルマンは何をしているだろうと考えても、レースの無い生活を送った経験のないゲルトには想像すらつかない。

ヘルマンが成績不振でサードに落ちて苦悩していた頃、ゲルトは顔にこそ出さなかったが彼を見ているのが辛かった。
人前で今まで通り明るく振舞いながらも、ロッカールームで独り肩を落としていた所にはち合わせして気付かないフリをした事は一度や二度ではない。
スランプからやがて袋小路に追い込まれ、消えるように姿を消すレーサーは数えきれない。 彼らのその後について詳しくはわからないが、ごく稀に聞く噂では仕事を転々としているなどといった、あまり良くない話が多い。
いくらレーサー同士は全員がライバルとは言っても、自分に懐いてくれた後輩をどうにかしてやりたいと思うのは自然なことだっただろう。
幸い、彼には多くのレーサーに欠けている資質、サーキットを離れても生きて行ける順応性が有った。
それなら、たとえ恨まれても狭い囲いから追い出して外の世界に開放してやるべきだ、と。
ゲルトは今でもあのときの判断を間違いではなかったと確信している。

しかしそれはヘルマンにとってのこと。
ゲルト自身はといえば感傷にどっぷりと浸かるていたらく。
こんなにもヘルマンの笑顔が恋しい。

視点の定まらない目で窓の外を見るともなく眺めていたゲルトは、ふと思いついて携帯を引っぱり出した。
ヘルマンの番号はわかっている。せめて声だけでも…
アドレス帳から彼のナンバーを探し出し、コールする寸前にマシューから声をかけられてハッとした。
「ドイツは今頃夜中だ、彼女も眠っているんじゃないか?」
すぐに「そうだな」と返し携帯をポケットに落としながら苦笑する。
今までレースの後でドイツとの時差を考えたことなど無かった。
構わず連絡をしていたわけではなく、すぐにでも電話して声を聞きたいと思う相手がいなかったから。
そう思わせるたった1人は出会ったときからずっとゲルトと一緒にいてくれた。

明日は早朝に空港へ向かい、一日移動に費やされる。
今夜のうちにメールを二通送っておこう。
そう決めてゲルトはわずかに口元を緩め、ゆっくりとメールを打ち始めた。
一通はヘルマンに時間を割かせるために。
もう一通はガールフレンドとのデートをキャンセルするために。

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